<広島原爆の日>尊い平和紡ぐ…兄被爆、長男9・11で犠牲

6日午前8時15分、かつて炎に焼き尽くされた街に、鐘の音が響いた。広島市中区の平和記念公園で営まれた平和記念式典。71年前のこの日、この時刻、米軍が落とした1発の原子爆弾が子どもからお年寄りまであらゆる人の命を奪い、数多くの人生を狂わせた。地獄の体験は今、核兵器廃絶や平和を願う思いとなり、広島から国内外の人の心に向けて発信されている。
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◇戦争、テロのない世界…米国人へ訴え

米軍が広島に投下した原爆で当時12歳の兄を失い、2001年9月の米同時多発テロで長男(当時35歳)が犠牲になった伊東次男(つぎお)さん(81)=広島市安芸区=は6日の平和記念式典に参列し、兄を追悼し、長男に思いをはせた。いずれも米国が絡んだ戦争やテロで2人を失った伊東さんは、7年前から米国人にも被爆証言をし、平和の尊さを訴えている。「憎しみではなく、許す心を持たなければ」。つらい過去を抱えるからこそ「核もテロもない世界」を願う。

オバマ米大統領が広島を訪問した今年5月27日、伊東さんは原爆慰霊碑前であった式典に招待された。兄と長男の遺影をかばんにしのばせ出席し、「兄貴、米国のトップが来て献花してくれたよ」と心の中で語りかけた。

1945年8月6日午前8時15分。伊東さんは爆心から約12キロ離れた学校にいて大きなけがはなかった。兄宏さんは爆心地に近い旧制広島一中(現県立広島国泰寺高校)で被爆した。直後は軽傷だったが、自宅にたどり着き「『助けてくれ』と叫ぶ友人を見殺しにしてしまった」と話して倒れこんだ。約1週間後、髪がごっそり抜け、次第に容体が悪化。「水を」と求める兄に、母は涙を流しながら脱脂綿で口元を湿らした。兄は「次男、お父さんとお母さんを頼むよ」と言って9月1日に亡くなった。「米国め、こんちくしょう」。伊東さんは子供心に強い憎しみを覚えた。
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2001年9月11日。銀行員だった長男和重さんが働く米ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、ビルは崩壊した。写真を片手に、夫婦で病院を探し回った。翌年にニューヨーク州の裁判所から死亡宣告を受けたが、遺体はまだ見つからない。

悲しみと憎しみを抱えていたが、04年に地元の小学生に被爆体験を講演する際、「自分自身の心に憎しみを抱えながら、平和を語っていいのか」と気づいた。

その後、米国で知り合った現地の日米交流団体からの依頼をきっかけに09年以降、米国から広島を訪れる教師や学生らに家族を失ったつらさとともに、相手を許す心の大切さを伝えてきた。

「米国との接点ができた自分だからこそ、できることがある。日米の役に立つことが、2人の供養にもなる」。深い悲しみは決して消えることはないが、そう確信している。狼一号

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